ギークもどきの日記帳

雑多な知識が垂れ流される場所。ほとんど無害。

死にゆく星空に百合は咲く 『アステリズムに花束を』を読みました

『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』は、「百合」と「SF」の2つのテーマを掲げて編まれた短編集だ。 もともとは伊藤計劃の『ハーモニー』10周年を記念して企画されたSFマガジンの百合特集がかつてないほどの反響を呼んだことがきっかけらしい。積ん読の山に目を向けると文庫版の『ハーモニー』がこちらを見ている。気が向いたら読みます。

さて、近年「百合」と呼ばれるジャンルが急成長している。あまりにも急成長したがために百合好きを公言する人々の間でも「百合とはなにか」のコンセンサスが取れておらず、安易に百合語りをすると棍棒やら鉈やらが飛んできて五体をバラバラに解体されカラスの餌にされる始末である。私も2回ほど鳥葬の憂き目にあったことがある。 実は「SF」も似たような状況だと聞くと驚く人もいるだろうか。やれSci-Fiスペースオペラだ空想科学だ1000冊読まないとダメだとか、挙句の果てにはSukoshi Fushigiだとか言い出して光線銃だの荷電粒子砲だのを持ち出してどんちゃん騒ぎが始まる様を見たのは一度や二度ではない。私も2回ほど太陽葬の憂き目にあったことがある。

そういうわけで百合とSFは存外相性が良く、そのことが商業レベルで証明されたのは両ジャンルを好むものの端くれとして喜ばしい限りである。じゃあ「百合SFとはなにか」という話をしたくなるわけで……これは最後にしよう。殺されるから。

『アステリズムに花束を』最初の一編のタイトルは『キミノスケープ』。ある日突然「あなた」以外の人間が忽然と姿を消した世界で、「あなた」は自分以外の誰かと巡り合うために旅を続けている。こんなあらすじの作品を「百合SFアンソロジー」の頭に持ってくるセンスはかなりキテると思われるかもしれない。なんといったって百合なのに登場人物がたった一人なのだ。百合とSFの定義の曖昧さをあらゆる角度から逆手に取っている。

次の作品は『四十九日恋文』。死者と四十九日の間だけメールができる、というお話だ。メールの文字数制限は49文字から始まり、毎日1文字ずつ減っていく。最後の日には一文字しか送れない、と。なんとも切ない世界観だ。 恋人を喪った女性がその心の内を少しずつ語りながら、死んだ恋人と短い文通をする。日に日に短くなっていく恋文はついにたった2文字になり、最後の一日が訪れる。 死んでしまった恋人に送る最後のメールのたった一文字、遺してしまった恋人に送る最後のたった一文字の言葉。書店で立ち読みした私は膝を打ちこの本をレジへ持っていった。

次は漫画『ピロウトーク』。前世でお気に入りの枕を無くしたという先輩とその後輩が枕を探してあちこちを旅する。先輩は「枕」は自分の魂の欠落をぴったり埋めるような恋人で、何度宇宙を巡ってもどんな姿に生まれ変わってもひと目見れば同じ存在だとわかるものだと語る。二人の"ピロウトーク"は意外な結末を迎え……。 奇妙な協力関係と微妙な気持ちのすれ違いは百合、という認識が自分の中にあるのはなぜだろうか。『裏世界ピクニック』がそんな作品だと聞いたことがあるが、まだ仮想積ん読に埋もれている。以前にもこんな作品を読んだのは間違いないが、思い出せない。もしかしたら前の宇宙で読んだのかもしれない。

次は『幽世知能』。あらゆる物理系は情報処理能力を持ったコンピュータだと言える。ならば現し世に物の怪や神隠しをもたらす幽世も宇宙である以上は物理系であり、幽世はコンピュータとして使うことができる。そういう理屈で幽世を利用したコンピュータ、幽世知能が創られた。正直こんな設定からどうやって百合に持ってくのかさっぱりわからないが、どういうわけか話はおどろおどろしい雰囲気をたたえながら情報理論や宇宙物理学を骨組みとして「相互理解」へ向かっていく。 摩訶不思議な架空のSFガジェットが物語を通して読者にも理解可能なものになり、それが物語を動かす大仕掛けになる。そんなSFの魅力の一つが遺憾なく発揮された作品だ。

次は『彼岸花』。いよいよ作品のあらすじをまとめることが不可能になってきたが、これはかなり変わったアフターシンギュラリティもの(?)だ。おそらく人造と思われる吸血鬼のような新人類「死妖」によって人類は置き換えられ、旧人類最後の一人となった舞弓青子は、死妖らから「姫様」と呼ばれる少女の計らいでその妹として生きることになる。マリみて的女学園の疑似姉妹の交換日記という形式で綴られる本作はもしかすると正統派の「百合SF」なのかもしれない。ところでみんな猫屋と鷹匠のこと好きだと思うんですけど、どう?

次は『月と怪物』。架空のソ連を舞台に、超能力開発のために拉致された姉妹の数奇な人生を描く。この作品はかなりストレートに同性愛を描いているが、私がそのことに気づいたのはラスト数ページのところだった。慌てて読み返すとなるほどうまくできている。超能力開発に絡めて共感覚が一つのSF的テーマとして語られるが、これも「ソ連といえば赤」の連想を思い起こさせる。ソ連といえば宇宙開発も外せない要素だ。これがタイトルの「月」に関わってくるのだが、そのシーンの詩的な美しさは堪らない。

『海の双翼』、これはもう読んでもらうしかその雰囲気を伝える方法がないのだが、個人的にはこういう「百合」が一番好きだ。この作品が「百合」かどうかはおそらくこのアンソロジーの中で最も意見が分かれるところだが、興味深いことに物語そのものがその問に一つの答えを提示している。SFのギミックも言語と情報が軸になっていてこれまた好物だ。常々人とコンピュータをつなぐインターフェイスに興味を持っているので、SF的インターフェイスを主要なギミックにしている作品を読むとあれこれと空想が止まらなくなる。

次は『色のない緑』。この作品は偶然時事ネタの塊になってしまった。2052年4月にインフルエンザが大流行し、人々は接触を恐れ可能な限り外出を控えるようになり、商業施設は軒並み廃墟と化した、という背景設定はわれわれの世界の2020年に興味深いほど合致している。人工知能技術の発達により小説は人工知能が書くのが当たり前になり、主人公は人工知能が書いた小説を「脚色」することを職業としている。これもまた今日のAIブームが人工知能による創作物の生成を当たり前のものにしたことを思わせる。物語の中で、主人公の友人は人工知能の不完全性を証明するが、その論文は論文の正当性を評価する人工知能によってリジェクトされ、彼女は液状記憶装置の中身を飲んで自殺する。これもいかにも現実に起きそうな話だ、というのは悲観的すぎるだろうか。

最後は『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』。ガス惑星の周囲を回るコロニーに暮らす二人の主人公は、氏族社会にゆるやかな反抗を示し、男女の夫婦でしか許されない"漁"へ出る。「百合SF」と真っ向勝負をしている本作だが、私はそんなことより乗り手の思考により形を変える船の方に魅力を感じた。ブレインヒューマンインターフェイスを持ち、必要に応じて柔軟に形と機能を変えることができる宇宙船はロマンの塊だ。あれ欲しい。絶対そんな船に乗って合理的だけど無茶苦茶な船にしたい。それを操縦できる人がいるかどうかは別にして。

そういうわけで、買ったのが去年の7月末だから、読み終わるまでにだいたい9ヶ月かかったことになる。この9ヶ月で世界は大きく変わった。「百合」は未だにあちこちで議論を巻き起こしつつも、女性同士の関係性を描くジャンルとして一定の共通認識を得、「SF」は不況を乗り越え『三体』は空前の大ヒット、『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』は長編化、『なめらかな世界と、その敵』も各地で話題沸騰。 そして現実のSF化もとどまることを知らない。新たなウィルス性の感染症グローバル化を達成した人類文明を焼き尽くさんがばかりに蔓延し、人々は接触を恐れ可能な限り外出を控えるようになり、保守的な人々もIT化を余儀なくされた。学校も仕事も今はすべてオンラインだ。良くも悪くも、今回の件は世界を変えるだろう。

すでに多くの人が指摘しているが、他者との接触、他人との関係がどれほど尊いものだったか、我々はそれを失いかけたことで強く自覚することになった。わずかな間に社会規範は大きく変わり、ハグや握手は親愛を示すための推奨される行為ではなくなった。明日は何が変わるだろうか。人はこの苦難を乗り越えることができるのだろうか。不安は多いが、希望もある。少なくともわたしたちは、こういった状況をすでに物語を通して学んでいる。

「百合SF」とはなんだろうか。そんな問いはナンセンスかもしれないが、私は今の現実を語るための非日常的な道具立てではないかと思う。女性同士の同性愛も魔法のような科学技術も現実に大量に存在する概念だ。しかし、それらは未だ非現実的な響きを持っている。そういう微妙なものを描くと、現実のうまい比喩になるのではないだろうか。喩え話はいつだって現実に立ち向かう助けになる。

確かにヒトはいつか死ぬ。だけど、生まれて死ぬまでのわずかな時間で、ヒトとヒトの関わりは美しく輝く。星のない宇宙を、ヒトの住む小さな土塊は明るく照らすだろう。どこまでも、いつまでも。