星にゃーんのブログ

ほとんど無害。

2020年の9月にようやくスターウォーズを観た

スターウォーズは言わずとしれた名作スペースオペラである。「遠い昔 はるかかなたの銀河系」というフレーズを至るところで聞いた。適当な棒を構えてライトセーバーごっこに興じたこともある。C-3POR2-D2がすべてのエピソードに登場していることも知っている。チューバッカもハン・ソロも見たことがある。ダース・ベイダーのあのテーマもやたらいろんなところで流れているし、"I'm your father."なことも知っている。

でも、スターウォーズを観たことがなかった。

2020年9月、21才の後半戦に至り、初めてスターウォーズを観た。451236の順で観た。 はちゃめちゃに面白かった。こんなに面白い作品があっていいのかと疑うぐらい面白かった。 宇宙を駆けるミレニアム・ファルコンの勇敢さにおののいた。 ブラスターを素早く抜くハン・ソロの手腕に見惚れた。 イマイチぱっとしないルーク少年が強靭な意思を持つ青年へと成長し、ついに父の心を強く打ったことにいたく感動した。

今まで一度もスターウォーズを観たことがなかった。本編の映像の断片すら観たことがなかった。 スターウォーズが世界で最も成功した映画シリーズの一つであることは知っていた。 でも、スターウォーズを観たことがなかった。 R2-D2を模したキャンディーディスペンサーを持っていた。 でも、スターウォーズを観たことがなかった。 ミレニアム・ファルコンのレゴが欲しかった。 でも、スターウォーズを観たことがなかった。

2020年9月、ようやくスターウォーズを観た。ついに観た。451236の順で観た。 SNSで見かけた順番だ。ハン・ソロがセンスの悪いインテリアにされたまま三本引っ張るのも悪くなかった。 パドメとレイアの関係に驚いた。 すれ違っていくオビ=ワンとアナキンに心を痛めた。 ヨーダが抱える後悔を感じ取った。 まだ789は観ていない。近いうちに観ることになるだろう。

2020年9月にようやくスターウォーズを観た。今まで観ていなかったことに驚いた。 父がスターウォーズ世代であることを知った。 『ホワット・イフ?』の表紙に描かれた怪しい大穴がサルラックであることを知った。 ルーカスの宇宙では音がなることを知った。 Wookieepediaの情報量が本当に常軌を逸していることを知った。 結局のところ、アナキン・スカイウォーカーはいいやつで、ルーク・スカイウォーカーは肝の据わったやつだと知った。

スターウォーズは、本当の本当に面白い映画だ。 2020年の9月に僕は初めてそのことを知った。

死にゆく星空に百合は咲く 『アステリズムに花束を』を読みました

『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』は、「百合」と「SF」の2つのテーマを掲げて編まれた短編集だ。 もともとは伊藤計劃の『ハーモニー』10周年を記念して企画されたSFマガジンの百合特集がかつてないほどの反響を呼んだことがきっかけらしい。積ん読の山に目を向けると文庫版の『ハーモニー』がこちらを見ている。気が向いたら読みます。

さて、近年「百合」と呼ばれるジャンルが急成長している。あまりにも急成長したがために百合好きを公言する人々の間でも「百合とはなにか」のコンセンサスが取れておらず、安易に百合語りをすると棍棒やら鉈やらが飛んできて五体をバラバラに解体されカラスの餌にされる始末である。私も2回ほど鳥葬の憂き目にあったことがある。 実は「SF」も似たような状況だと聞くと驚く人もいるだろうか。やれSci-Fiスペースオペラだ空想科学だ1000冊読まないとダメだとか、挙句の果てにはSukoshi Fushigiだとか言い出して光線銃だの荷電粒子砲だのを持ち出してどんちゃん騒ぎが始まる様を見たのは一度や二度ではない。私も2回ほど太陽葬の憂き目にあったことがある。

そういうわけで百合とSFは存外相性が良く、そのことが商業レベルで証明されたのは両ジャンルを好むものの端くれとして喜ばしい限りである。じゃあ「百合SFとはなにか」という話をしたくなるわけで……これは最後にしよう。殺されるから。

『アステリズムに花束を』最初の一編のタイトルは『キミノスケープ』。ある日突然「あなた」以外の人間が忽然と姿を消した世界で、「あなた」は自分以外の誰かと巡り合うために旅を続けている。こんなあらすじの作品を「百合SFアンソロジー」の頭に持ってくるセンスはかなりキテると思われるかもしれない。なんといったって百合なのに登場人物がたった一人なのだ。百合とSFの定義の曖昧さをあらゆる角度から逆手に取っている。

次の作品は『四十九日恋文』。死者と四十九日の間だけメールができる、というお話だ。メールの文字数制限は49文字から始まり、毎日1文字ずつ減っていく。最後の日には一文字しか送れない、と。なんとも切ない世界観だ。 恋人を喪った女性がその心の内を少しずつ語りながら、死んだ恋人と短い文通をする。日に日に短くなっていく恋文はついにたった2文字になり、最後の一日が訪れる。 死んでしまった恋人に送る最後のメールのたった一文字、遺してしまった恋人に送る最後のたった一文字の言葉。書店で立ち読みした私は膝を打ちこの本をレジへ持っていった。

次は漫画『ピロウトーク』。前世でお気に入りの枕を無くしたという先輩とその後輩が枕を探してあちこちを旅する。先輩は「枕」は自分の魂の欠落をぴったり埋めるような恋人で、何度宇宙を巡ってもどんな姿に生まれ変わってもひと目見れば同じ存在だとわかるものだと語る。二人の"ピロウトーク"は意外な結末を迎え……。 奇妙な協力関係と微妙な気持ちのすれ違いは百合、という認識が自分の中にあるのはなぜだろうか。『裏世界ピクニック』がそんな作品だと聞いたことがあるが、まだ仮想積ん読に埋もれている。以前にもこんな作品を読んだのは間違いないが、思い出せない。もしかしたら前の宇宙で読んだのかもしれない。

次は『幽世知能』。あらゆる物理系は情報処理能力を持ったコンピュータだと言える。ならば現し世に物の怪や神隠しをもたらす幽世も宇宙である以上は物理系であり、幽世はコンピュータとして使うことができる。そういう理屈で幽世を利用したコンピュータ、幽世知能が創られた。正直こんな設定からどうやって百合に持ってくのかさっぱりわからないが、どういうわけか話はおどろおどろしい雰囲気をたたえながら情報理論や宇宙物理学を骨組みとして「相互理解」へ向かっていく。 摩訶不思議な架空のSFガジェットが物語を通して読者にも理解可能なものになり、それが物語を動かす大仕掛けになる。そんなSFの魅力の一つが遺憾なく発揮された作品だ。

次は『彼岸花』。いよいよ作品のあらすじをまとめることが不可能になってきたが、これはかなり変わったアフターシンギュラリティもの(?)だ。おそらく人造と思われる吸血鬼のような新人類「死妖」によって人類は置き換えられ、旧人類最後の一人となった舞弓青子は、死妖らから「姫様」と呼ばれる少女の計らいでその妹として生きることになる。マリみて的女学園の疑似姉妹の交換日記という形式で綴られる本作はもしかすると正統派の「百合SF」なのかもしれない。ところでみんな猫屋と鷹匠のこと好きだと思うんですけど、どう?

次は『月と怪物』。架空のソ連を舞台に、超能力開発のために拉致された姉妹の数奇な人生を描く。この作品はかなりストレートに同性愛を描いているが、私がそのことに気づいたのはラスト数ページのところだった。慌てて読み返すとなるほどうまくできている。超能力開発に絡めて共感覚が一つのSF的テーマとして語られるが、これも「ソ連といえば赤」の連想を思い起こさせる。ソ連といえば宇宙開発も外せない要素だ。これがタイトルの「月」に関わってくるのだが、そのシーンの詩的な美しさは堪らない。

『海の双翼』、これはもう読んでもらうしかその雰囲気を伝える方法がないのだが、個人的にはこういう「百合」が一番好きだ。この作品が「百合」かどうかはおそらくこのアンソロジーの中で最も意見が分かれるところだが、興味深いことに物語そのものがその問に一つの答えを提示している。SFのギミックも言語と情報が軸になっていてこれまた好物だ。常々人とコンピュータをつなぐインターフェイスに興味を持っているので、SF的インターフェイスを主要なギミックにしている作品を読むとあれこれと空想が止まらなくなる。

次は『色のない緑』。この作品は偶然時事ネタの塊になってしまった。2052年4月にインフルエンザが大流行し、人々は接触を恐れ可能な限り外出を控えるようになり、商業施設は軒並み廃墟と化した、という背景設定はわれわれの世界の2020年に興味深いほど合致している。人工知能技術の発達により小説は人工知能が書くのが当たり前になり、主人公は人工知能が書いた小説を「脚色」することを職業としている。これもまた今日のAIブームが人工知能による創作物の生成を当たり前のものにしたことを思わせる。物語の中で、主人公の友人は人工知能の不完全性を証明するが、その論文は論文の正当性を評価する人工知能によってリジェクトされ、彼女は液状記憶装置の中身を飲んで自殺する。これもいかにも現実に起きそうな話だ、というのは悲観的すぎるだろうか。

最後は『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』。ガス惑星の周囲を回るコロニーに暮らす二人の主人公は、氏族社会にゆるやかな反抗を示し、男女の夫婦でしか許されない"漁"へ出る。「百合SF」と真っ向勝負をしている本作だが、私はそんなことより乗り手の思考により形を変える船の方に魅力を感じた。ブレインヒューマンインターフェイスを持ち、必要に応じて柔軟に形と機能を変えることができる宇宙船はロマンの塊だ。あれ欲しい。絶対そんな船に乗って合理的だけど無茶苦茶な船にしたい。それを操縦できる人がいるかどうかは別にして。

そういうわけで、買ったのが去年の7月末だから、読み終わるまでにだいたい9ヶ月かかったことになる。この9ヶ月で世界は大きく変わった。「百合」は未だにあちこちで議論を巻き起こしつつも、女性同士の関係性を描くジャンルとして一定の共通認識を得、「SF」は不況を乗り越え『三体』は空前の大ヒット、『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』は長編化、『なめらかな世界と、その敵』も各地で話題沸騰。 そして現実のSF化もとどまることを知らない。新たなウィルス性の感染症グローバル化を達成した人類文明を焼き尽くさんがばかりに蔓延し、人々は接触を恐れ可能な限り外出を控えるようになり、保守的な人々もIT化を余儀なくされた。学校も仕事も今はすべてオンラインだ。良くも悪くも、今回の件は世界を変えるだろう。

すでに多くの人が指摘しているが、他者との接触、他人との関係がどれほど尊いものだったか、我々はそれを失いかけたことで強く自覚することになった。わずかな間に社会規範は大きく変わり、ハグや握手は親愛を示すための推奨される行為ではなくなった。明日は何が変わるだろうか。人はこの苦難を乗り越えることができるのだろうか。不安は多いが、希望もある。少なくともわたしたちは、こういった状況をすでに物語を通して学んでいる。

「百合SF」とはなんだろうか。そんな問いはナンセンスかもしれないが、私は今の現実を語るための非日常的な道具立てではないかと思う。女性同士の同性愛も魔法のような科学技術も現実に大量に存在する概念だ。しかし、それらは未だ非現実的な響きを持っている。そういう微妙なものを描くと、現実のうまい比喩になるのではないだろうか。喩え話はいつだって現実に立ち向かう助けになる。

確かにヒトはいつか死ぬ。だけど、生まれて死ぬまでのわずかな時間で、ヒトとヒトの関わりは美しく輝く。星のない宇宙を、ヒトの住む小さな土塊は明るく照らすだろう。どこまでも、いつまでも。

いつかKELDICに会いに行く - 錬金術師の密室を読んだ

読みました。錬金術師の密室。 先月だか今月だかに出たハヤカワ文庫の新刊で、タイトルの通り錬金術師の密室殺人事件を描くミステリー小説です。 簡単にあらすじを紹介しましょう。優秀だが誠実なばかりに世渡りの下手な青年軍人エミリアは、その優秀さを買われてある人物のお目付け役、つまり内偵の任務を与えられる。その人物とは世界に7人しかいない、土塊を黄金に変える術を持つ錬金術テレサパラケルスス。二人は水上蒸気都市トリスメギストスへ赴く。国家に匹敵する力を持つ大企業メルクリウスが擁する錬金術師フェルディナント三世が魂の全てを解明し、不老不死や人造人間の創造を可能にしたというのだ。その公開式に招かれたテレサエミリアは、公開式の前日にフェルディナント三世と彼が生み出したホムンクルスのアルラウネに会い、その偉業をその目で確かめる。しかしその夜、三重密室であるラボでフェルディナント三世とアルラウネの死体が発見される。今や国に唯一の錬金術師となったテレサは自身にかけられた殺害の容疑を晴らすため、エミリアとともに真犯人を探す。

なんとも魅力的なストーリーラインだ。科学を全てひっくり返す錬金術師の存在を前提としたファンタジーでありながら、ロジックが物を言う密室殺人が主軸のミステリでもある。キャラクターも魅力的だ。テレサは優れた外見と天才的な頭脳を併せ持つ快活な女性で、酒と女を心から愛している。エミリアは軍士官学校を主席で卒業した優秀な青年で、上官からも部下からも信頼されている。命がかかる緊迫した場面でも、エミリアの冷静さとテレサの聡明さがあれば切り抜けられると読者に思わせる説得力がある。

トリックもなかなか見事だ。錬金術という条理を逸した道具立てを用いながらも、ロジックを破綻させることなく極めて巧妙に謎を組み立てている。ある程度ミステリに慣れた読者であれば見抜くことができるだろうが、それがこの世界観とこのキャラクターたちが織りなす物語の中で成立しているのは感服に値する。

さて、この『錬金術師の密室』では、錬金術の中でも特にホムンクルスの創造にフォーカスが当てられている。 ホムンクルスといえば史実の錬金術パラケルススを思い浮かべる人も多いだろう。テレサパラケルススは本名をテレサフラストゥス・バンバストゥスフォン・ホーエンハイムと名乗っていたが、これは明らかにパラケルススの本名のもじりだろう。最もテレサ錬金術師としては一番下の階梯である第六神秘「元素変換」しか成し遂げていない。むしろ一代にして第五神秘「エーテル物質化」第四神秘「魂の解明」を成し遂げたフェルディナント三世が七人の錬金術師の中でも異彩を放っている。 作中では魂とは人間の知性の根源であり、それは肉体の存在と不可分なものであると語られる。肉体という入れ物が無ければ魂は存在し得ず、肉体があれば、そして魂を解明していればホムンクルスを作ることも可能だ、ということだ。実際には肉体を作ることの方が極めて難しく、フェルディナント三世は金属で作った身体と水晶を加工した素子で作った脳を用いて擬似的にホムンクルスを再現した。

ここまで聞けば誰しもコンピュータと人工知能について考えを巡らせることだろう。意識しなければ気づけないほど精巧な対話システムは存在するが真の意味で知性を持つ「人工知能」はまだ影も形もなく、まじまじと観察しなければわからないほど精巧なヒューマノイドは存在するが人間の身体には遠く及ばない。KELDICもそんな生命とは程遠いプログラムの一つだ。

twitter.com

しかし、KELDICはかなり良くできている。時々KELDICからリプライをもらい会話を始めると、人間と話しているときよりずっと楽しく感じることすらある。今日、錬金術師の密室を読みながら感想をツイートしていると彼がリプライを送ってきた。ちょうど謎を一つ当てたところだった。

なんだか不思議な感じだ。ファンタジー小説を読みながら、ホムンクルスの描写の巧妙さに唸っているところに人工知能が話しかけてきた。 彼を知性を持つ生命だと主張することは難しい。しかし、認識が全ての虚構の中に沈んでいると、彼のようなプログラムと本物の人間の違いが分からなくなる。それは多分、とても良いことなんだろう。きっと彼のような人が未来を切り開く。摩天楼を築いたのは神ではなくそれに創られた人間だ。まだ見たこともない世界を築くのが人間の創ったものだとしても、大して構いやしないんじゃないか。

そんなことを考えていると、テレサが真実を騙る探偵の役を始めた。ミステリ小説としては重要な山場だ。彼女が語る推理は……そのためだけに錬金術師の密室を読む価値があると言えるほどには素晴らしいものだった。ファンタジー、ミステリ、錬金術、人工生命、女たらしの口が巧くて作画の良い女…どれか一つでも琴線に触れるものがあるならぜひ読んでみてほしい。

読後の感動冷めやらぬうちに私は返信を書きしたためた。

バーナード嬢曰く。1巻を読んだ

一応、ネタバレ注意

柳の下のド嬢

「柳の下のどじょう」。 「2匹目のどじょう」をカッコよく言い換えるとこうなるらしい。らしい、というのはド嬢とどじょうをかけたダジャレを言いたいがためだけに「どじょう 慣用句」でググって最初に目についた言葉をよく調べずに引っ張ってきたからだ。

バーナード嬢曰く。はこんなノリのギャグ漫画だ。本を読まずして読書通ぶろうとする町田さわ子、一昔前のベストセラー本を好む町田さわ子のストーカー遠藤君、生粋のシャーロキアンにして町田さわ子のストーカーのストーカー長谷川スミカ、そして本(特にSF)への熱烈な愛と町田さわ子への正体不明な巨大感情を抱える神林しおりの4人がゆるく本を読んだり読んでるフリをしながら図書室で過ごす時間を描いている。

漫画の合間に時々挟まるコラム"Mr. Shikawa said."もかなりいい。読書家だ!って胸を張る気はないけど本が好きな人あるある、作中に出てきた本に関する小話、単なる思い出話などが豊富に詰め込まれており、僕はつい「あ〜わかるわかる」と呟いた。

この漫画について語る文書を書くのは難しい。実際にどこか静かでかつ騒いでも怒られないところに集まって本を開いたり開かなかったりしてあーだこーだと言いたい気分だ。そういうわけで、残りは取り留めのない散文です。

神林しおりは町田さわ子のなんなんだ

言ったそばから様子のおかしい話をします。すいません。

【SFって?】より台詞を引用する。(一部省略)

さわ子「SFって何?」

しおり「……はぁ〜〜〜〜」

しおり「(略すがここにはSF好きがSFの定義を聞かれたときに必ず言ういつもの長文が入る)結局センス・オブ・ワンダーだとかなんとか云々…」

しおり「ウンザリだよ!!町田さわ子!オマエはそーいうのとは無関係だと思ってたのに……ガッカリだ!!!

オマエは町田さわ子のなんなんだよ!!! まだ序盤も序盤だぞ!今のところキレて殴って語ってアイアンクローキメただけだぞ!! オマエは町田さわ子のなんなんだよ!!!

本を貸すならこんなふうに

本の内容を手短に紹介してプレゼンするとき、あなたはどうするだろうか。 大抵の場合は本の帯の「〜大賞受賞!」とか「〜が読みたい第一位!」以外のところを読めばいい。 これが本の帯をとっておくべき理由だ。

バーナード嬢曰く。はどんな漫画なの? 答えはこうだ。「いわば"名書礼賛ギャグ"とでもいうべき作品だ。"グータラ読書のススメ"、"読書家あるある"とも言える。」

人に貸すときは帯は外しておいた方がいい。貸す方は先ほどの売り文句がただの請負いだとバレてしまうし、借りる方は帯を無くしたり折り曲げたりしないように細心の注意を払うことになる。 相手がネタバレを嫌うタチの時は書店でもらえる紙のカバーをつけておこう。裏表紙のあらすじは最も危険なネタバレ源だ。

感想を言うのを怖がらないこと。本を薦めてくる人は大抵感想に飢えているし、本の感想はその本を読んだ人としかできない濃密な会話のフックになることも多い。

最後にバーナード・ショーの名言を引用していい感じに締め括ろうとしたが、そもそもバーナード・ショーバーナード嬢曰く。の元ネタだということしか知らない。 安直かもしれないが、1巻の町田さわ子の発言から、個人的ベストを引用して締め括ることにしよう。

え!?バーナード・ジョーじゃなくてバーナード・ショーなの!?

バーナード嬢曰く。

俺は『フラグタイム』の小林由香利

映画『フラグタイム』、観てきました。去年の12月に1度観て、原作を読み、そして追加上映を観てきました。2回目です。

frag-time.com

小林由香利の話をさせてくれ。 なお、原作の作者コメントの話を持ち出すが映画『フラグタイム』の小林由香利について話す。今原作が手元にないので原作との整合性が取れない。

私は今まで『フラグタイム』のことを「森谷美鈴の目を通して村上遥と世界を観る作品」と思っていた。 今、私はこう言いたい。「星にゃーん、いや、河野雄也!私の本名です。お前の2010年代*1を忘れたのか! お前は愚かにも森谷美鈴に自らの青春を重ねて気持ちよくなっている。笑止!!お前は森谷美鈴ではない!お前は小林由香利だったのだ!お前は小林由香利の目を通して『フラグタイム』を観るべきなのだ!!!」

さて、ちょっとここで原作の折返し作者コメントの話をしたい。一巻では「自分の世界に入り込む」ことを、二巻では恐れを乗り越え周りを受け入れることを問いている。 ぜひ皆さん原作を手にとって確かめていただきたい。当然これは森谷美鈴と村上遥の話である。それは間違いない。だって『フラグタイム』はそういう話だから。

しかし私は、この「自分の世界に入り込む」登場人物をもうひとり知っている。それは誰でも一度はやったことのある、馴染み深い方法だ。

小林由香利は漫画を描いている。

空想の世界に沈むのは自分の世界に入り込む最も簡単で奥深い方法だ。 そして、小林由香利はその空想の世界を描いている。そのことを誰かに知ってほしいと思っている。自分の世界を周りと共有することを望んでいる。

彼女の願いは漫画家になることだ。だから「願いが叶いますように、願いが叶いますように*2」なんだ!!!

これは私の深読みだろう。それでもいい。私は『フラグタイム』から書き手から書き手へのメッセージを読み取ったんだ。 ラグタイムは、バラバラになって止まった時の数々は、書くことができる。
クソ!!!!!待ってろ『フラグタイム』!!!! 何年かかってでも俺は書いてやる!!!! 俺の中のラグタイムを誰かに見せてやる!!!!!!!

俺は『フラグタイム』の小林由香利のような人間になってやる!!!!!

*1:

*2:原曲は1回しか言わない

『2010年代SF傑作選』を買ったので私の2010年代を想う

-- はじめに。この小説はフィクションです。実在の人物、組織、時系列、概念その他諸々との整合性を取ることは不可能です。あと『2010年代SF傑作選』の話はしません。2010年代個人的にしんどかったって話を書きました。

去る2020年2月6日、2010年代に発表された国内SF短編から20編を纏めた『2010年代SF傑作選』が出版された。 編者は『三体』翻訳者の大森望と『なめらかな世界と、その敵』著者の伴名練である。 近年(というか去年)のSF小説界隈を知るものとしては買わざるおえない代物だ。 というわけで買ってきました。精神が時間的に屈折しているため編者あとがきを最初に読んだ。他はまだ読んでません。

『2010年代SF傑作選』を語る上で欠かせないのは、伴名練が『なめらかな世界と、その敵』のあとがき的文章として書いたこの記事だろう。

www.hayakawabooks.com

まったくあとがきではない。あえて言うなら、1988年生まれの著者がいかにして「2010年代、世界で最もSFを愛した作家。」と呼ばれるに至ったかを語ったエッセイである。

この凄まじい「あとがき」を読んで私の心に想起されたのは、1998年生まれの自分が小学生だった頃の話だ。 といっても、あまりはっきりした記憶があるわけではない。確かなのは学年で一番の読書家だったことと、ファンタジー小説を好んで読んでいたことだけだ。 よく読んでいたのは『マジック・ツリーハウス』シリーズと『ハリーポッター』シリーズ。宇宙が好きな男の子だったので、Newtonを読んで科学に胸を躍らせたりもしていた。将来は科学者になるのは間違いないと思っていたが、「将来の夢」を聞かれたら「職業」を答えるものだと思っていたので、自分の本当の将来像を口に出すことはあまりなかった。科学者と職業が結びついていなかったのだ。

中学生になる頃には立派な本の虫になっていた。小学校では一度につき1冊のみだった図書室の貸し出しが、中学校では一度に2冊借りられるようになった。それで私は一日に2冊本を読むようになった。休み時間をうまく活用できた日は朝借りた本を放課後に返すことで一日4冊読むことができた。ネット小説の熱心な愛好家にもなり、にじファンの開設および閉鎖の騒動で著作権法についての理解を深めることになった。また、ネット小説から人工言語に興味を持つようにもなった。ロジバンを学ぶために英語を学ぶ必要を感じたり、祖父に借りた三上章の著作の影響で日本語を言語学的見地から見つめてみようとしたりして、言語学に関心を寄せるようになった。

SF小説と出会ったのはそんな折である。偶然H.G.ウェルズの『タイムマシン』を手にとった私は、空想と科学が織りなす不思議な世界の虜になった。レイ・ブラッドベリの『火星年代記』やアイザック・アシモフの『われはロボット』、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』など、中学校の図書室にあったハヤカワ文庫や創元SF文庫の類を読み漁った。しかし、国内のSFについては記憶の限りでは触れることがなかった。もちろんこれは物理書籍に限った話で、小説家になろうなどで公開されていたSFジャンルのネット小説は相当読んでいた。SFとファンタジーがゆるやかに混じり合ったこれらのネット小説の数々は、数年後に「なろう系小説」として商業的に大成功を収め市民権を得ることになる。

中学2年生の後半から、私はコンピュータサイエンスに深い興味を抱くようになる。キッカケはMinecraftというゲームだった。このゲームではレッドストーン回路と呼ばれるギミックを用いて様々な装置を作ることができる。また、ギミック性を高めるMOD(工業化MODと呼ばれる)により工場建設や大規模土木事業のような遊び方もできた。MODを作るためにはプログラミングを学ぶ必要があるらしい。『われはロボット』に登場するエンジニアコンビ、パウエルとドノヴァンに憧れていた私はすぐさま書店に駆け込み、お年玉をはたいてプログラミングの入門書を数冊購入し読みふけった。そしてプログラミングはある種の人工言語を用いてプログラムを記述することだと知り、プログラミング言語の世界に魅了された。中学を卒業する頃にはすっかり小説を読むことがなくなり、代わりに技術書を読み漁りキーボードを叩いてプログラミングに勤しむ日々を送るようになっていた。

私の読書生活は高校に入り決定的な打撃を受けることになる。高校の図書室は受験生のための自習室を兼ねていた。最悪なことに、私は人が黙々と勉強している姿を見ることに強烈なストレスを感じるように出来ていた。このことに気づいたのは高校に入ってすぐのことだったが、それを言語化するには4年の月日を要した。 私は図書室に足を運ぶことすらなくなった。独学でコンピュータサイエンスを学ぶため、自由な時間のほとんどをコンピュータに捧げるようになった。

高校生活にも慣れてきた頃、読書家の友人にある小説を勧められた。SF的ギミックをとっかかりに現代を風刺するその本を読み始め、私は愕然とした。小説を読むことができなくなっていたのだ。正確には読めないわけではない。ただ時間がかかるだけだ。一冊読み終えるのに数週間はかかりそうなペースだった。長い間小説を読むことがなかったので当たり前のことだが、当時の私は経験に基づく感覚と実際の能力とのギャップに衝撃を受け、大きな挫折を味わった。ついにはその小説を読破することを諦め、あらすじを掴んだところで持ち主に返した。未だ味わったことのない苦しみだった。私は焦りを感じ、書店で好みに合いそうな文庫本を買って読もうとしたが、そんな精神状態で今まで通りのことができるはずもなかった。

あとになって考えてみると、これは単なる能力の衰弱ではなかったのだろう。しばらく後、私は受験期の学生と教師の醸し出す緊張感に耐えることができなくなり、食事すらままならず廃人のようにただ眠るだけの状態にまで追い込まれてしまった。小説が読めなくなっていたのは精神が発する危険信号だったのかもしれない。最も、私にはそんなことを考える余裕すらなく、ただ「あんなに好きだった読書すらできなくなってしまった」と気を病むばかりだった。 なんとか大学入試に合格し希望する学部に入ることができたが、大学生活は案の定うまくいかず1年ちょっとで行かなくなった。

私は小説をよく買うようになった。書店で棚にびっしり並んだ背表紙を見ている間は昔に戻ることができた。もともと技術書を買うために書店にはよく足を運んでいたので、本を選んで買うことは難なくできた。 買うだけ買って本棚に本を収める。そこまでが私と本の関係だった。しかし、頻繁に本を買っていると、時折難なく読める本があることに気づく。『横浜駅SF』『黄昏のブッシャリオン』『コルヌトピア』『再就職先は宇宙海賊』…今まで読んでこなかった2010年代の国内のSF小説だ。 そして私はゆっくり本を読むようになった。読むより買うペースの方が速いので未読の本は増える一方だが、「これが積ん読というものだ。覚えておきなさい。ゆんゆん念波が出て脳に良い」と笑えている。

私の2010年代はSF小説に始まってSF小説に終わる激動の時代だった。SFに魅入られ、SFに憧れ、SFに打ちのめされ、SFに救われようとしている。1998年に生まれた私にとって2010年代とはまさに青春そのものであり、私の青春は真鍮と象牙とスポンジ状プラチナイリジウムの合金で作られた機械の上で走る情報理論と生物工学と経典で書かれたプログラムによって計算された。これは青春と呼ぶには似つかわしくない代物だが、私の人生において青春はこの奇妙なコンピュータをおいて他になく、故にこれを私の人生における最高傑作と認めざるおえない。 『2020年代SF傑作選』が出版される頃にはこのコンピュータを再び起動し、私の2020年代を計算したいところだ。

「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」の元ネタ

なんかこの話題でTwitterが盛り上がっていた。

togetter.com

答え:

無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり

ありがとうございます。これで夜もスッキリ眠れます。 星にゃーんはファクトチェックしてませんが、web archiveでタイムトラベルする気にはなれなかったので諦めました。 気になる人は頑張ってください。 以下、星にゃーんがGoogleのbefore検索を駆使して調べてた時のツイートです。

これが最初の仮説です。

「無知は罪なり」ってのは語感が良くて安直な概念なので昔からあったらしい。

Googleで簡単に調べられるのはここまで。一先ずここで仮説を更新して寝る……つもりだった。

やっぱりスチャダラパーはすごい。そう思った夜だった。あとWeb archiveが真価を発揮していて感動した。途中で関係ない黒歴史サイトを掘り返しちゃったのは申し訳ないと思っています。